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一片氷心で四季を巡る書斎ブログ

『異邦人』アルベール・カミュ/精神病質(サイコパス)の源流

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様々な小説の中に頻繁に登場する小説。

随分前から気になっていたのですが、永らく買わずにおりました。そして、今年に入って買ったはいいものの、しばらく積ん読として読まずに側に置いていた作品です。

アルベール・カミュは、あのノーベル文学賞を受賞した作家であり、内容については引用符そのものですので、越谷オサムの『陽だまりの彼女』の時と同様に、感想文だけに留めたいと思います。

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

母が死んでも1つも心は揺るがない

主人公・ムルソーの母が養老院(老人ホーム)で亡くなり、葬儀のために雇い主から仕方がなく仕事に暇を取る際に、「私のせいではない」と言い放った瞬間から、既にムルソーが人間として何処かで何かが欠落している事が分かります。

しかもこれが、物語の一番最初の1ページ目の7行目に有るのですから、まさに出鼻を挫かれた様な思いです。出落ちという表現はちょっと違うかもしれませんが、あながち間違いでもないかと。

親族の死を軸に構えた作品は、私が今年に入ってから読んだ作品の中では、例えば重松清の『君去りし後』が印象的ですが、こちらは死んでしまった息子と、死にゆく元妻への弔いがテーマとなっているので、少し違うかもしれません。

となると死を罪と認識せず、厭わない(暇がない)という意味合いに於いては伊藤計劃の『虐殺器官』を思い浮かべますが、戦争で虐殺の感覚に麻痺したクラヴィスでさえ、自らの手で母の延命治療を中止させてしまった過去に深い罪の意識を持ち、断罪を期待しながら引きずっていたにも関わらず、 ごく自然に母の死を無感傷なく受け入れるムルソーの思考には、決定的に何かが足りません。

また、先日読んだ、さだまさしの『眉山』では、自ら老人ホームに入居する事を選択した母を慈しみ、忍び寄る死を悼んでいた事を考えると、ムルソーの思考はおおよその常識人の考える親族の死とは、かけ離れている事が早々に分かります。

不謹慎という意識の欠片が1つもない

私は今年に入ってから父を亡くしました。

通夜を泣き明かす事こそありませんでしたが、それもどうやら気が張っていただけの事だったらしく、告別式の際には仕事や友人、その他大勢の親戚の前で人目を憚らず、大粒の涙を流してしまいました。私にとっての父の死は予見されていた事象でしたが、数日の間は、本を読んで精神を調律する以外に何も出来ず、正直に告白すると今でも整理がついていません。

それだけ親族の死というものは、抽象的な言葉ですが特別な事であり、精神が乱れる要因でもあります。もちろん、過去に成長の中で親族との間にトラブルやトラウマの有る人はこの限りでは有りません。

さて、ムルソーですが、引用符にあるように、母の死の翌日に海水浴と映画に行き、女性と夜を共にするという、母の死は1日経てばまるで他人ごとです。更に、雇い主からもらった2日の休暇の申請が金曜日で、土日を挟めば4日であることを思い出し悦に浸るなど、ある意味では己の欲望のために母の死を利用している、とも捉えることができます。

一方、何処か人間社会の理性という観点が欠落した、子供っぽさと平和な動物的とも言えます。

殺人の動機は「太陽のせい」

平和な日本社会でも、世の中では人の死に関する様々な事件が毎日のように起き、テレビの無い生活を送る私の元にすら、そういった情報が耳に入ります。

なぜ人間だけに許された理性というものは、流動的で、時にそういったバグを引き起こすのか、常々不思議に思うのですが、どうしようもない殺意に似た危険な感情は、最後は数年前に感じた事がありました。

もちろん、それを起因として何か事件を引き起こし、更には公安のお世話になった訳ではありません。多かれ少なかれ、いわゆる私のような普通の人間でも、時としてそのような激情に駆られる事があるということです。

この私の体験については、具体的な事は記事にしていません。私の詳細で少々触れているのですが、これにより私は20代のうちの7年間を失ってしまったのですが、これには列記とした常人には耐え兼ねる原因がありました。

ともかく人を殺めるという事には、それが人によっては理解できないものであっても、多かれ少なかれ理由があるのです。

しかし、ムルソーは人を殺した動機は、個人的な恨みがあったわけでも、綿密な計画があったわけでも、衝動的なものですらもないため、うまく答えられず渋々「太陽のせい」と言い放つ様から、一見善良に見える一般市民のムルソーの普通の人間にはない異常性が認められます。

処刑当日を夢見て悦に浸る

殺人に至る流れを読者として見ている限りは、普通の人間であれば懲役の実刑で済みそうな案件ですが、一貫した欠落を基に証言するムルソーはついに死刑判決を受けてしまいます。

自分の罪について、ほとんど認識しておらず、狭い監獄と外に出られないのがちょっと嫌だと考えながらも、環境に順応してゆく様から、この男はいったい人生の何を求めて生きているのかが分かりません。

私の当座の場合、読みたい本がまだまだ大量にあり、父を亡くして一人残された母が悲しむ(と思う)ので、死なないから生きているようなもので、多くの事に絶望して7年間の月日を失った抜け殻のような私の状態でも、いわゆる老年が来れば仕方がありませんが、例えば明日死ぬ事は嫌だと思います。

私は無宗教ですが、人が宗教に手を延ばすのは、そこに誰にも理解してもらえない不器用な人を理解してくれる世界があるから、とか、何となくそのようなニュアンスを持った言葉を聞いた事があります。

日本の死刑囚の執行所には、仏教方式とキリスト教方式の祭壇があり、死刑囚に祈りを捧げる人がいるそうです。

生を閉す事を受刑とする人間には少々慈愛深すぎる文化のような気もしますが、『異邦人』の世界にも死刑囚に祈りを捧げ、魂を救おうと、司祭が監獄を訪れます。ムルソーは一線超えて爽快なくらいに司祭をリジェクト(拒絶)するばかりでなく、死刑になりたいのだから邪魔するなと言わんばかりに叩きだしてしてしまいます。

それなりに友人も居て、女も居て、何かを欠落しながらも生きてきた人間が最後に望むのが死刑執行という晴れ舞台…。それは、目的を持たずに生きてきた人間のアベンド(=異常終了)と考えると、ムルソーはやっと救われたのかもしれません。

【総合的な感想】物語の側面だけではない多角化した切り口

物語の表面をなぞらえた、私の読書感想文もそろそろ終わりに近づいてきました。

私が最も時間を持て余し、最も本を読んでいた若かりし頃に本作品を読んでいたら、良くも悪くも、もっと別の印象を持っていたかもしれません。

大人目線の今では、これまで少なからず経験してきた数々の皺から、色彩から、活字の海から、このような読書感想文となりましたが、また次に読む時は全く異なる感想になるかもしれません。

また、始めからひたすら違和感を覚えていたのは、翻訳のせいなのか分かりませんが、しつこいくらいにひたすら多用された過去形での記述です。

過去形への直接的な言及はありませんが、この物語自体は裁判を取材しに来た記者が書いた物語だからではないか、と白井浩司が解説の中で指摘しています。

しかし、私の見解では貧窮しながらも自然の中で育った、著者であるカミュが幼いうちに培った動物的本能を反映したものだからではないかと考えます。

ともあれ、故人でありノーベル文学賞者について言及するには、あまりに恐れ多いのでこのへんにしておきたいと思います。

読書家なら、必ず一度は通らなければならない本かと。

言及したこれまでに読んだ本

2015年5月現在に読んだ本です。

きみ去りし後』(重松清)

愛する親族を亡くした後と、これから亡くす、季節を巡る感動の聖地巡礼のお話し。本作品とは真逆どころか世界が異なる舞台設定の小説です。

虐殺器官』(伊藤計劃)

精神病質(=サイコパス)をテーマにしたアニメ『PSYCHO-PASS』で言及された小説にして、和製SFながらもフィリップ・K・ディック賞を受賞するも、若くしてこの世を去ることになった伊藤計劃の処女作。

眉山』(さだまさし)

自ら老人ホームに入居することを選択した母の愛に満ちた人生と、近づく死に直面する物語。

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