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「自分で考えろ」の言葉を『思考の整理学』を用いて自分で考えてみた

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はじめにお断りをしておきますが、私は一般企業に勤める30歳のいちサラリーマンです。

もちろん専門家を自負できるような知識はどの分野においても皆無であり、強いて言うなら仕事柄、金融と情報処理技術の分野のみ少しだけ得意である程度の存在です。

さてさて早速ですが、匿名日記サイトとして有名な「はてな匿名ダイアリー」で、以下の記事が少し話題となっておりました。

ざっくり概要を説明すると、新人に自分の力でやらせるよりも、答えや手順を渡すなどの手っ取り早い方法の方が伸びるんじゃないのか?という内容です。ちなみに、私はこの意見に対して基本的には反対の立場です。

つい先日、外山滋比古先生のロングセラー『思考の整理学』を読み、大変な感銘を受けたところでしたので、「自分で考えろ」という言葉を、第1章「グライダー」の知見を用いて、その他大勢に属するいちサラリーマンとしての考えをここに記します。

「自分で考えろ」は、ある意味では正しい

現代社会の教育は、いわゆるテストで良い点数を取る事が良い人間として評価されます。

良い点数を取るためには、手っ取り早く手取り足取り、ことの正解を伝えることで実現します。言い換えれば、はじめから答え有りきで説明をすることが一番楽なのです。

しかし一方で、答えに行き着くまで自力でたどり着くための教育があるかというと、残念ながらそうはなっていません。学校は良い成績、良い点数を取る人を高く評価するシステムになっています。自由な発想よりも、はじめから用意されている正確な答えが重要視されているのです。

果たして、考え悩み努力することと、手っ取り早く答えを出すのと、どちらが正しいのでしょうか?

思考の整理学』では、自分で考えることのできる人間と、できない人間を以下のように例えています。

  • グライダー:一見、飛べるように見えるが、実は自力で飛ぶことができない、自分で考えることのできない人間
  • 飛行機  :自力で飛べる、自分で考えることのできる人間

「自分で考えろ」という言葉は、「自分の力で飛んでみろ」すなわち「グライダー人間になるな」とも捉えられます。そう言う意味であれば「自分で考えろ」は、きつい響きながらも実は愛のある言葉に聞こえます。

ただ実際のところ、「自分で考えろ」と言った側はきちんと新人の自立を促そうと、本当に考えているのでしょうか?

仕事ができる/できないに学歴は関係無いの真相

ところで周りに高学歴または難関資格を取得している、あるいはその両方を兼ねそなえるにも関わらず、はたから見ていて明らかに仕事ができない人がいませんか?

そういう人がいたとしたら、別に珍しいことでもなんでもありません。きっと完璧なグライダー人間なのです。完璧なグライダー人間は、自力で飛ぶことはそもそも不可能です。

人生はちょっとした選択の連続であるように、選択を誤った際にはその責任が自分に降りかかります。ただ生きる上では、社会のルールや法律を守ることで、けっこうなリスクを減らすことができます。

仕事においても、常に責任が伴います。選択を誤った際には言葉の謝罪でも、一筆したためた反省文でも、立場によってはクビのような重大なかたちで責任を取る必要があります。

自分で考えて選択することが苦手なグライダー人間のままでは、いくら勉強ができても仕事ができるとは限らないのです。

「自分で考えろ」と言う側が、自分で考えられる人間なのかが問題

話は戻って、「自分で考えろ」の是非ですが、問題は「自分で考えろ」と言える側の立場の人間が、果たして相手に「自立した一人前になってほしい」と、きちんと考えた上での発言なのかということに尽きます。

悲劇として早い段階で義務教育の中で好成績を残したグライダー人間である事を受け入れた人は、親にも義務教育の教育者からも叱られた経験は少ないのではないでしょうか。

一方で、好成績を取れなかった未熟なグライダー人間は、成績の悪さについて叱られた過去があるはずです。そうでない人は、グライダー人間を強制しなかった親や教育者に感謝しなければなりません。

新社会人を教育する立場にある人は、場合によっては親と子ほどの年齢差があることは、別に珍しいことではないと思います。

前述のグライダー人間を高評価する義務教育の中で「親」を例に出したように、親と子ほどの年齢が離れた主従関係の中では、仕事の指導側の立場である人間が、自分の子の成績が良ければ褒め称えるようなグライダー人間である可能性が高いのではないでしょうか。

つまりは、グライダー人間がグライダー人間の面倒を見ている可能性が高いのです。自力で飛べない無自覚のグライダー人間が自力で飛べる飛行機人間を教育することが果たしてできるのでしょうか。

思考停止で言い放つ「自分で考えろ」は最悪

責任を問われにくい若手社員は無垢な赤ん坊のようなものです。一方で、何か有った際に責任を取る必要のある上司側の立場の人間が大変なのは分かります。

しかし、無垢な赤ん坊の自立への育成を放棄し、思考停止状態で言っておけば楽な言葉として言い放つ「自分で考えろ」は最悪です。

それでも自分で考えた結果、若手社員が失敗してしまった時に「なぜ事前に相談しなかった」などと更に怒鳴りつけるなんて、どんなコントなのでしょうか。笑えないどころか罰金を払ってもらいたいぐらいです。

そんな時は感情的になるのを抑えて、そうなってしまった責任を上司が取り、同じ過ちを起こさないように改めて自分で考えるための力添えをするのが正解でしょう。そのためにも雀の涙ような若手社員より多くの給料をもらっているのですから。

仕組みが分からなければ、本当の答えには決してたどり着きません。思考停止の責任放棄はどれだけ偉くとも仕事をしていないのと同じです。

「自分で考えろ」と言葉で言うのは簡単ですが、簡単な言葉でもその責任をきちんと取れるのでしょうか。「自分で考えろ」の言葉は自分で考えてた上で使えていますか?

まとめ

ずいぶん長々と書きましたが、要約すると私の考えは以下の通りです。

  • 飛行機人間を育てるための「自分で考えろ」は賛成
  • グライダー人間が自分に甘えて言う「自分で考えろ」は最悪
  • 「自分で考えろ」は自分で考えた人だけが使っていい言葉

ここまで述べたことはグライダー人間であった私がかつて、実際に上席からひどい仕打ちを受けた体験を踏まえている部分が多々あります。その後、良い環境と良い上司に恵まれ、今は少しは自分で飛べる飛行機人間に近づいていると実感しています。

本記事の中の要所で登場する、グライダーと飛行機の違いについては、外山滋比古先生の著書『思考の整理学』の一部に過ぎません。

書籍の趣旨は、文字通り「思考」を「整理」するためには

  • どのような知識を身につけ
  • どんな風に考え、時に忘れ
  • どのようなライフスタイルを目指せば良いのか

ということに関する啓蒙書となっております。

しかし冒頭に記載している「自分で考えろは新人に使ってはいけないと思う」というタイトルを見た瞬間、真っ先に浮かんだのが『思考の整理学』の第1章『グライダー』でした。

実は約35年以上前の世に出た書籍なのですが、とても読みやすく、今でも本屋さんでは普通に平積みされているほどの長年に渡る大ベストセラーで、著者である外山滋比古先生は、2017年現在、93歳にしてご存命の文学博士です。

機会があれば是非一読して見てください。きっと人生のおけるあらゆる要素への認識が変わります。

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