さだまさしと言うと、切ない歌を歌う丸眼鏡の歌手というイメージがありますが、著書も多数存在します。
高校時代に司馬遼太郎を愛読していた読書家の友人が、「さだまさしは小説も良い」と言っていたことを、何となく思い出し、仕事で徳島に若干の馴染みがあったため、本書『眉山』を手に取りました。
(眉山とは徳島県徳島市に存在する小高い山の事で、徳島市のシンボル的な存在です。)
東京で働く咲子は、故郷の徳島で一人暮らす母が末期癌で数ヶ月の命と告知される。徳島に滞在し、母を看取ろうと決心した矢先、咲子は母が自分に黙って「献体」を申し込んでいたことを知る。それはなぜなのか?やがて咲子は、まだ会ったことのない父の存在と、母の想いに辿り着く―。毅然と生きてきた女性の切なく苦しい愛が胸をうつ長篇小説。
気丈な母に起きた異変の知らせ
東京で働く咲子。
6月。久しぶりの休日、溜まっていた家事を片付けているとき、徳島で老人ホームに入っている母・龍子が錯乱した、との冷たい連絡が入る。
”神田のお龍”
母は啖呵を切るときに必ず見得を切って自らそう名乗った。
本名は龍子。神田鍛冶町生まれのちゃきちゃきの江戸っ子、というのが母の自慢で、喧嘩っ早いが情には脆い。怒ってもうじうじ後を引かず、言いたいことを言い、喧嘩をしても、収めるところへ収め、互いに納得さえすればどんなわだかまりもさっさと忘れるという、まことにさっぱりとした性格だった。(17ページ)
あの、気丈で聡明な母に限ってそんなはずがない。
老人ホームで母の世話をするケアマネージャーの大谷啓子から、錯乱ではないと聞かされるも、これまで仕事の忙しさを理由にズルズルと帰郷を先延ばしにしていたので、咲子は徳島に帰って一度母の顔を見ることにする。
錯乱ではなかったが・・・
三ヶ月ぶりに徳島に帰郷した咲子。
龍子が錯乱したと呼ばれた原因は、横柄な若い看護師を叱りつけた結果、その看護師がヒステリーを起こした事と知る。
母はただ、持ち前の江戸っ子気質が出ただけと安堵する一方、医者から告げられたのは母の検査結果。
気丈に振舞っていた母だったが、その身体は治療が不可能な状態にまで進行してしまった末期癌に蝕まれていた。
「この夏はなんとか越せそう」その医者の一言に、それまでの咲子になかった強い何かが奥から沸き上がる。
徐々に明かされる母の偉大さ
生まれた時から唯一の肉親であった母。
なぜ、父がいないのか。
なぜ、母は生まれ育った神田を離れ、徳島に移り住んだのか。
日に日に母が病魔に侵され弱りゆく中、取り巻く人々の人生に如何に多くの影響を母が与えたのかを知り、やがて明かされる、母が献体を申し出た理由。
そして、阿波踊りの日が近づいてくる。
【総合的な感想】神田のお龍の言葉が身に染みる
本作品の主人公は、”神田のお龍”の娘である咲子ですが、母・龍子の江戸っ子節が印象的で、横柄な看護師、自惚れた若医者、龍子の過去に登場する自分勝手な有名歌手などを叱りつけるシーンが、読み手の思いを代弁しているかのようで印象的でした。そして、身体は弱れど最後まで気丈に振る舞った龍子の精神に感服です。
また、仕事の関係で徳島に出張することがたまにあるのですが、徳島の人が阿波踊りにかける情熱を考えると、阿波踊りの季節が本作品のピークであり、それを過ぎた頃が母・龍子の余命の尽きる頃であり、物語のラストという物語には特別な思いを感じます。
ただ、重要なテーマとして龍子自身の献体を通した医療だと思うのですが、ちょっとこのあたりは弱いかなと。
というのは、私は父を癌で亡くしており、病院や医療というものを少なからず見た身で、医療をテーマにするのであればもう少し消化不良感があります。
とは言いつつも、本作品で一貫して語られる龍子の凛として気丈な、女性として、人間としての生き方は、男ながら惚れ惚れとしてしまうものがあります。