今年の始めごろ父が亡くなり、漠然とした喪失感から読んだ重松清の『きみ去りしのち』では号泣させられました。
半年毎くらいに、前の会社の読書家である知り合いと飲みに行く機会があり、よく最近読んだ良かった本について語り交わします。その際に私は『きみ去りしのち』を紹介し、かわりに紹介してもらった作品が本書『その日のまえに』です。
重松清の作品は若いころにも何冊か読んでおり、暖かい家族モノの物語が特徴的な作家です。
本作品は、それぞれの物語で人の死を真っ直ぐに見つめ、そして見つめ直す、連続短編で構成された作品となっています。
僕たちは「その日」に向かって生きてきた―。昨日までの、そして、明日からも続くはずの毎日を不意に断ち切る家族の死。消えゆく命を前にして、いったい何ができるのだろうか…。死にゆく妻を静かに見送る父と子らを中心に、それぞれのなかにある生と死、そして日常のなかにある幸せの意味を見つめる連作短編集。
ひこうき雲
昔ばなしだ。いまから三十年近く前--僕たちの町の空を、世界各国のひこうきが飛び交っていた頃の話。(14ページ)
かつて住んでいた町、妻・奈江の90歳になる祖母の介護施設へ向かう道すがら、とある小学生の少女を思い出す。ガンリュウこと岩本隆子。男女問わず誰からも嫌われていたガンリュウ。
一学期の頃のガンリュウに病気の気配はまったくなかった。クラスの女子でいちばん背が高く、「ガンリュウ」の語感にふさわしいがっしりした体つきをして、女子にしては低い声でしゃべり、地黒なので目立たなかったが、よく見ると鼻の下の産毛がうっすらと黒ずんでいた。(17ページ)
幼い頃に経験した、知り合い以上友達未満の異性の喪失。あえて物語の中では死んだと直接言及はされていません。
核家族化が進んだ現代では、幼い時代に人の死に面する事はとても少なりました。ずっと昔にそんなことがテレビで言及されていた事を思い出します。
幼い頃に人の死を看取ると、一体何が変わるのでしょうか。私は生まれた時から父方の祖父も祖母も既に亡き人で、幸運にも幼い頃に同年代の友人が亡くなった事もありませんでした。
しかし、私の父は小学生の頃に弟(私から見ると叔父さん)を亡くしており、命日やお盆が近づいてはその魂を弔っていた事が思い出されます。
朝日のあたる家
夫の昌史が亡くなってから八年になる。結婚生活は七年足らずだったから、すでに一人になってからの日々の方が長い。
忘れたと言えば、さすがに嘘になってしまう。だが、昌史のことを思い出す機会が少しずつ減ってきたのは認める。思いだすときも、まず「悲しみ」が薄れ、「寂しさ」もしだいに淡くなって、いまでは記憶に残る場面のひとつひとつを「懐かしさ」できれいにまとめることもできるようになった。(69ページ〜70ページ)
過去になった夫の死と娘と二人きりの母子家庭。もともと高校の教師をやっていたため、突然夫が亡くなった母子家庭でも生活が困窮することはなかった。
この物語の主人公・ぷくさんは、体力をつけるため日課にしている出勤前のジョギング中に、かつての教え子・武口に偶然出会う。そしてぷくさんの住むマンションに今は結婚した、もう一人の教え子・入江睦美が住んでいることを知る。
卒業生の一人一人を細かく覚えているわけではなかったが、入江睦美は、かつてとある問題を起こした生徒であった。
卒業間際、睦美は小さな事件を起こした。ぷくさんはクラス担任ではなかったので詳しい話は知らないが、ショッピングセンターで万引きをして、店員に捕まったのだ。初犯ということもあって、警察沙汰にはならずにすんだ。動機は不明。担任の教師が何度か問いただしても、うつむいて「すみませんでした」と繰り返すだけだったらしい。(72ページ)
人が生まれて死ぬことも”すごい”が、ごく自然に生きていること自体が”すごい”ということが語られる作品。
一方で、ぷくさんの教え子であった武口と入江は「永遠」に漠然とした恐怖を抱き、生きることへの不器用さ(生きづらさ)を抱えています。
私もかつて、人こそ亡くなりませんでしたが酷く深く傷ついた過去があり、その時にありふれた日常というものが実はどれだけ幸せな事であるのか痛感した事があります。
しかし、逆にその時の私の日常を傷つけた人が世の中にはいて、自分の思い描く日常が、必ずしも他の人には当てはまらないという考えにも至りました。
当たり前の事の大切さ/日常の一片の貴重さを改めて考えさせられます。
潮騒
立ち上がる。鈍痛のする腰に手をあてる。腰の痛みは冷房のせいではなかった。ときどき襲ってくる吐き気や食欲不振も、夏バテなどではなかった。それを知ったときには、もう、すべてが手遅れになっていた。(116ページ)
余命三ヶ月。佐藤俊治には残された時間がもう少なかった。
病院で余命宣告を受けたその足で、三十二年前に引っ越してしまって以来、ずっと背中を向け続けていた港西の地へ向かった。夕方には子供に悟られぬよう、何食わぬ顔で家に帰らなければならない。
かつて海難事故で亡くした友人・オカちゃんとの思い出と、オカちゃんの死をめぐって衝突した友人・石川との和解。そして自身の余命の告白と花火大会。
余命宣告を自身で受けたとき、人は何を考え片付けていくのだろうか。
蝉の声が一筋、すぐ近くで聞こえた。ホームの柱にニイニイゼミが留まっていた。夏の終わりの蝉だ。この蝉も、おそらくあと数えるほどしか命は残されていないのだろう。
(中略)
土の中で生きている時期を「幼虫」と呼ぶからいけないんじゃないか、蝉はそもそも土の中の生き物であって、地上に出てきたからの姿は、「成虫」ではなく、「死装束」だと思うべきではないのか、だとすれば半月の命を悲しむことはない、蝉はすでに土の中で十分に生きたのだ、地上に出て、羽が生えたあとは、「晩年」にすぎないのだ……。(113ページ)
他にも多数の短編が収録されていますが、個人的に一番印象的な短編で、もしも自分が余命宣告を受けたとしたら、自分は誰に会い、どこへ行きたいと願うのだろうかと考えさせられました。
いつかは失われることは分かっているのに、いつまでも続くであろうと惰性で過ごす日常へ、突然訪れる近い将来のピリオド。
結婚もしておらず、特に人生の目標意識の無い私でも結構重たいテーマだと思います。もし、3ヶ月で自分の命が消えることが分かったら、何をしますか?
ヒア・カムズ・ザ・サン
赤ん坊の頃に父を交通事故で亡くして以来、母子家庭で15年間育ったトシ。
いつものようにテレビの芸人のくだらないネタに「死ね」を織り交ぜた毒舌を吐くが、母からきつい口調で叱られる。
「お母さん、今度、胃カメラ呑もうかなって思ってるんだけど」
「へ?」
「先月健康診断あったでしょ、あれでね、ちょっと再検査の項目がたくさんあって」(167ページ)
突然の告白に動揺するトシだったが、当の本人は駅前のストリートミュージシャンに夢中になるなど、どこか上の空。
きっと大した病気ではないと思う反面、気になって開いた「家庭の医学書」には肺ガンの治療法のページへ栞が挟まれていた。
でも、母ちゃんは「いる」--それだけで、いい。うまく言えないけど、母ちゃんの役目は「いる」ことなんだと思う。「いる」と「いない」の差はとんでもなく大きいけど、「いる」をキープしてしまえば、そこから先のことはどうだっていい。(中略)母ちゃんは「いる」からこそ意味がある。いてくれないと困る。なにがどう困るのか予想もつかないぐらい困る。いてほしい。絶対に。これからも。(176ページ)
今年の2月、私は父を病気で亡くしました。私には母と2人の兄がいますが、もしも母が亡くなり天涯孤独の身になるのであれば、それも社会に出る前の自分勝手な年頃だったのならば、そんなことを考えてしまいます。
もう半年経ちましたが、まだ私には父が亡くなったことをうまく受け入れることができず、176ページの引用にあるように、父や母といった親の存在は「いる」からこそ意味があるというフレーズには、どこか不器用さ/ぶっきら棒さを感じますが強く共感できます。
その日のまえに/その日/その日のあとで
最初に出会った時の神さまは僕に微笑みかけてくれていたが、二度目の神さまは違った。あわれむような目で僕を見つめてから、ゆっくりと、黙って、顔をそむけ、背中を向けた。歩き出す。もう用はすんだと言わんばかりに遠ざかる。一人ではなかった。神さまは和美の手を引いて、僕の前から立ち去ろうとしている。(221ページ)
連続する3つの短編で書かれる、本書の表題作品である『その日のまえに』。表題にして本書の最後を締めるのは、妻の余命が1年足らずであることを知った夫のお話し。そしてこれまでの短編とのつながり。
ふたりの出会いから新婚時代に至る、ひとつの夫婦二人きりの時代を巡礼する旅。活字を通して見えてくる歯が浮くような仲睦まじい様子からは、未来を断ち切られた夫婦とはとても思えません。
しかし、作品名の「その日」とは「妻が死ぬ日」の事で、連続する3つの作品名から、和美にどのような未来が訪れるのか決定されてしまっているだけに、夫の目線で語られる妻や2人の幼い子供の様子がとても切なく感じます。ありきたりな感想ですが、本当に大切な人/本当に愛している人の余命を知り、それを決して避ける事ができない運命はとても残酷です。
【総合的な感想】人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのだろう
一昔前と比べれば、現代は技術の進歩とともに、人の平均寿命は飛躍的に伸びました。
しかし、それでも人は必ず間接的/直接的に死を経験します。前者は本作品に納められた各々の例のように、後者は自分自信の死です。死は日常においては非現実的なものですが、身近で不変の真理です。
では、何のために我々は生まれて死ぬのでしょう。人の死をどのような形で取り込み、どのような形で自分を終わらせる日を迎えれば良いのでしょう。
その答えは哲学的で、きっとどこにもありません。