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『吉祥寺の朝比奈くん』中田永一(乙一)/ちょっぴりホロ苦な青春恋愛短編集

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既に著者である本人も公認している話ですが、中田永一は鬼才の現代作家・乙一の別名義です。

本書を購入したのは、実は今から3年以上前の事です。その頃の私は、プライベートな事情で精神的に参っていて、本の中へ逃げ込みたい思いで手に取った事をよく覚えています。しかし、購入直後は大好きだった小説も全く手に取る事ができず、長らく積ん読になっていました。

今年に入ってから数えきれないほどの本を買い込み、階段が作れる程の未読本が積み上がってしまいましたが、ひょんな事から本書の存在を思い出し、手にとって読み始めました。

彼女の名前は、上から読んでも下から読んでも、山田真野。吉祥寺の喫茶店に勤める細身で美人の彼女に会いたくて、僕はその店に通い詰めていた。とあるきっかけで仲良くなることに成功したものの、彼女には何か背景がありそうだ…。愛の永続性を祈る心情の瑞々しさが胸を打つ表題作など、せつない五つの恋愛模様を収録。

『交換日記はじめました!』

恋人同士の圭太と遥が内緒で交わしていた交換日記。二人だけの秘密だったはずが…。

恋人同士の交換日記形式で綴られる短編。

交換日記というと、まだ現代のように携帯電話が登場していない、または持つことを許されなかった小学生時代、友達と秘密裏に行われる子どもたちのコミュニティの1つだったように記憶しています。ところが、本作品の中での交換日記の役割は、そういった一般的な運命を辿りません。

交換日記は、同年代の友達同士でやり取りされる事が常だと思いますが、この作品の交換日記はその全てを裏切ります。唯一残る交換日記らしさは、人から人の手に渡ること。ただし、その範囲や縦軸・横軸・奥行きの全てが私の想像を超えていました。それも、あらゆる意味で。

わずか50ページ弱の短編小説(もとい短編日記)ですが、乙一のエンターテイメント性が遺憾なく発揮されています。

『ラクガキを巡る冒険』

高校二年のときにクラスメイトだった遠山真之介。五年後の今、不思議なことに同級生の誰も彼のことを憶えていないのだ。

実家に帰省した際に押入れから見つけたマッキーを目にした桜井千春は、かつてのクラスメイト・遠山慎之介の事を思い出し、彼の現在の所在を探し始める。そして思い出すのは、8年前、中学二年生の時に起こったラクガキ事件。彼女は何故、目立たないクラスメイトを巡り探るのか。

本書に収録されている1作品目『交換日記はじめました!』に、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が登場することから、一瞬「『羊を巡る冒険』のオマージュかな?」と思いましたが、内容はそうではありませんでした。

遠い昔の記憶と真実を巡るという意味合いにおいては似ている気もしますが、あちらは純文学ですし、こちらは大衆文学とカテゴリから全かと。

要約すると、中学時代にいじめられっ子だった、とあるクラスメイトのために晴らしたクラスへの報復とその真実を巡る物語ですが、湊かなえの『告白』のようなダークネスなものではありません。ただし、これは後半になって分かる事です。(『告白』は単純比較として例に上げるのには正しく無いかもしれませんが、私の中ではちょっと比較できる書籍がありませんでしたので、ご容赦下さい。)

単純な青春懐古、もしくは忘れていた初恋の人を追いかける物語として読み進めていたのですが、こちらも予想を裏切る展開と結末に爽快感を覚えました。乙一の作品を愛読していた頃の感覚が蘇ります。

『三角関係はこわさいないでおく』

ツトムと小山内さんと、俺。ツトムは小山内さんが気になり、小山内さんは…? 微妙なバランスの三角関係の物語。

文武両道の白鳥ツトム、鷲津廉太郎が彼と親友になったのは高校一年、初夏の頃であった。白鳥ツトムはとにかく女子からモテる。しかし、彼自身は同じクラスの小山内(おさない)さんという女子の事を好きになってしまった。しかし、小山内さんの意中の人は…。

三角関係というと、昼ドラや芸能ワイドショーを連想してしまう人は、おそらく私だけではないでしょう。しかも「こわさないでおく」と言われると、浮気というか、背徳感の漂う言葉ではありますが、物語はそうではありません。

美しくも儚く壊れやすい、青春を共にする友人と好きな女の子。ほんの少しの選択ミスで容易く壊れる友情と、そのどっち着かずのズルさ。ありそうで無かった綺麗な三角関係。

短編ながらも、本書の中では最もページが割かれている作品です。何となく、そんな時代が私にもあったなぁと、ちょっぴりホロ苦い若かりし頃の記憶が蘇ります。

『うるさいおなか』

私のおなかは、とてもひんぱんに、鳴る。そのせいでどうしても積極的になれなかった私の前に、春日井君があらわれて…。

人並み以上、”特別に”お腹の奏でる音色に女子高生・高山さんの物語。

私の腹は鳴る。とても頻繁に、鳴っておしまいになる。私はハラナリスト。この主張はげしいおなかの持ち主になって、もいうすぐ十七年になる。小学生のときは気にならなかったが、中学生になってから毎日が赤面の連続だった。(182ページ)

大学生の頃ドラッグストアでアルバイトをしていた際、本作品にも登場する「ぐーぴたっ」なる、静謐な淑女のためのアイテムが存在を認識した時、しかもそこそこ売れる事を知った時、ある種の衝撃を受けたものです。化粧に生理用品、染髪に愛されカール、女子は男に比べて大変な事は知っていましたが「まさかこんな商品が世の中にあるとは!」、と。

何はともあれ、女子のデリケートな一部の側面を、極限まで突き詰めた本作品。母から受け継いだ、先天的ハラナリスト。

ギャグに持っていき、最後には悩みが解決して終わり!みたいな、痛快な作品なのかと勘ぐりながら読み進めていましたが、流石は中田永一こと、乙一です。

これから先の高山さんはどうなるのか、そして高山さんのお腹の音に固執するクラスメイト・春日井くんとのこれからは?、と何となく含みを持った終わり方ですが、どこかまったりとした物語です。

『吉祥寺の朝比奈くん』

山田真野。上から読んでも下から読んでも、ヤマダマヤ。吉祥寺に住んでいる僕と、山田さんの、永遠の愛を巡る物語。

現在失業中の主人公・朝比奈ヒナタは、吉祥寺の喫茶店のウェイトレス・山田真野を目当てに喫茶店通いを続けていた。

しかしある時、喫茶店内でカップルが始めた痴話喧嘩に巻き込まれてしまい、負傷する。幸か不幸か、可愛い女の子から連絡先を手に入れた朝比奈だったが、怪我は大したことがなかったため、連絡をすることは無かった。

数日後、献血ドーナツを目的に献血へと足を運んだ朝比奈は、偶然喫茶店のウェイトレス・山田真野と遭遇する。他愛の無い話しが終わる瞬間、朝比奈は山田真野へ急接近する。

「今度、メールしてもいいですか?」
いいよ、と言ってくれたらメールアドレスを聞いてみるつもりだった。
(中略)
彼女の左手の薬指にはリングがはまっていた。ほんとうはずっと前に気づいていたけど、自分には見えないふりをしていた。彼女は居心地わるそうに言った。
「喫茶店ではたらいてるとき、これ、はずしてたから、しらなくて、当然だよね。そういうつもりで、声をかけてるのだとしたら、ごめんね。それに、今から私が行くところ、わかる?四時までに、保育園に子どもをむかえにいかないとだめなんだ。でも、まあ、メアドくらいなら、おしえても、旦那には怒られないかな?どうおもう、朝比奈くん」(236ページ〜238ページ)

表題作である、本作品。後ほど知ったのですが、映画化もされています。

さて、冒頭から昼ドラのような展開をにおわせる、何だか危なっかしい雰囲気があります。が、これも『三角関係はこわさいないでおく』と同様、そういうベタな作品ではありませんし、こちらもまた、乙一らしい作品に仕上がっています。

「結婚とは何だろう?」「結婚式は何のためのものだろう?」「不倫をするとどうなるのだろう?」とにかく結婚と、その破綻にまつわる朝比奈ヒナタの自問自答が印象的です。

ただ、この朝比奈くんは物語の中では言及されていませんが、一貫して恋とか愛といった、そういう情熱的な何かが欠落しています。これは物語を最後まで読むと分かる事で、いわゆるネタバレに該当してしまうため、本記事では言及致しません。

軽そうなタイトルではありますが、結婚という契約の定義やそのあり方への思考、そして子持ちの既婚者・山田真野との交流の中で生まれる主人公・朝比奈ヒナタの見えない内部葛藤が伺え、私にとっては実に印象深い作品となりました。

【総合的な感想】天才・乙一の更なる昇華が垣間見える作品

私は学生時代から中田永一こと乙一の大ファンで、卒業論文も村上春樹にするか、乙一にするか悩んだほどです。(結果的に、参考資料の多い村上春樹を選んだのですが。)

乙一の手法はエンターテイメントに特化しており、物語の設計もかなり計算された上で小説を書き上げるらしいのですが、短編集ではありますが、本書はそんな鬼才・乙一の更なる昇華を感じさせるものでした。ただ面白いだけでは、最終的には面白くない。乙一の作品を読んで、数日間考えさせられるような経験は初めてです。

本書の作品はどれも、かつて私が体験した物事の断面を、時に優しく触れ、時に鋭く抉るような、優しさと切なさを含んでいます。

これからも出版されるであろう、乙一の著書がますます楽しみになりました。

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